一、ようこそ

 海の波音がよく聞こえる。
 窓から見ればキラキラと光る波が美しい。
 道路を走る車や貨物トラックのタイヤの音なんて皆無だろう。
 そんな道路を挟んだ海辺の一日に朝昼夕と僅か五回しかバスが停まらないバス停の隣の小さい喫茶店。
 海にマッチさせるようにマリンブルーの店。
 席も対面式の二つのテーブルとカウンター席が三席。
 今はまだ誰も来ていない店内で大きな鍋に火をかけて黙々と杓文字を回す。中身はまだ焦げ茶色になっていないコーヒーの生豆。しばらくするともくもくと煙が立ち上り店内にアロマを焚いたようにコーヒーの匂いが広がる。
 十分後。
 パチパチと爆ぜる音がした後にコーヒーの豆の色がグラデーションのように変わっていく。
「よし。」
 真っ黒でもなくて薄い茶色でもない普通の茶色よりも濃い色の茶色のコーヒー豆が出来上がる。
 鍋の火を落とし、茣蓙に豆を広げてすぐに扇風機で冷やす。
「おいしくなれ。」
 おまじないをかけるように豆を混ぜる。
 手で触る豆の温度を感じながら。
 がざがざ、がざがざ。
 海のさざ波のような音を立てながら。
 しかも早く。
 時計を見る。
 針が八時を指していた。
「そろそろ…、ご来店かな。」
 ドアのプレートをcloseからopenに変え、黒板のウェルカムボードに白いチョークで書いた。

『本日のモーニングの貸し切り 『彼女」を知る紳士様一名。』

 ドアの右隣にボードを置くとバスが停車する音が耳に入る。
 バスから降りる一人に向かって言う。
「いらっしゃいませ。」
 ドアを開けて店のカウンター席へと案内をした。




 二、コーヒーを片手に

 雰囲気は紳士。
 髪は綺麗な黒の髪にわずかに白髪が混じる。
 服装はTシャツにGパン。
 体格も歳から推測するには素晴らしく良い。
「お水です。」
 ガラスのコップを置いた。
 一口だけ水を含めた。
「おおー、良い水を使っているのですね。」
 口元が緩んだ。
「ありがとうございます。」
 先程煎ったコーヒー豆をミルに入れて挽く。
 コーヒーの匂いが店内に広がる。
 ミルを回すハンドルの音も響き渡る。
「うん、良い音だ。」
 見られているのは慣れている。
 豆を挽き終わり、サイフォンの準備をする。
 フラスコに常温にまで戻した水を入れてセットをする。
 ガスに火をかけ温める。
 しばらくすればコポコポと音を立てて水がお湯に変わりコーヒー豆に到達する。手に持っている竹箆を軽く回してフラスコの水がなくなるともう二、三回だけ前後に動かす。
 ガスを止めれば自然とフラスコにコーヒーが落ちる。
 コーヒーが落ちた後のコーヒー豆は山のように盛っていた。
「良いコーヒーだ。」
「砂糖やミルク入りますか?」
「砂糖を二杯。」
「はい。」
「そしてかき回さないで。」
「はい。」
 砂糖を入れてコーヒーを注ぐ。
 後はシンプルにバタートーストだけを用意した。
「本日のモーニングです。」
「ありがとう。」
 トーストを食してコーヒーを一口だけ含ませる。
「トーストのパンも美味しい。コーヒーも澄んでいる。」
 もう一度口、元にカップを近付ける。
「香りも香ばしくて良い。豆が新鮮の証拠だ。サイフォンにコーヒーが上がる瞬間の泡立ちの良さが物語っている。」
 ここまで見ている人は珍しい。
「お客様、コーヒーにお詳しいのですね。」
「少し口煩かったかな。コーヒーは女性についで口煩い。」
「うふふ。」と微笑む。
「それも…『彼女』の影響だけどね。」
 空になったカップにはザラメになっていた砂糖が残っていた。
 スプーンを差し出す。
「良いコーヒーのお礼に話そう。『彼女』について。」
 店内に波の音が聞こえた。

 三、『彼女』

 スプーンでカップの底に溜まった砂糖を救い出して口に入れた。
「どんな方でしたか? 」
 カウンター越しに聞いた。
「うん…。まだ私がコーヒーを覚えた頃だった。今のようなカジュアルのような店はなく、スーツにワンピースのような服装で、どちらかといえば高級だった。当然だが町工場の作業着じゃ入れない。一人で入店するにも相手待ちが常識。仕事の交渉先や恋人などね。一人でコーヒーを飲むなんてとても勇気がいる。」
 ジーパンのポケットから懐中時計を取り出す。
「時間かかりますか? 」
「少なくともこの貸し切り時間は大丈夫。この懐中時計はその時の『彼女』との待ち合わせの合図。」
「恋人だったのですか? 」
 嬉しくなってきた。
「いいや。」
「どんな関係? 」
「それを聞かれると困るなぁ。あえて言葉にしたら『友人』かな? 」
「…友人ですか? 」
「うん。ただしお互い一度も顔を見ていないけどね。懐中時計をテーブルに置いて私は隣の席に座る。もちろん顔は見ないようにお互いに背中を合わせるように座ってね。」
 空になったカップに再びコーヒーを注ぐ。
「どんな理由があったかは今も謎だけど当時はそれで納得した。出会いも突然だった。一人でコーヒーを飲んでいたらいきなり話しかけてきた。『お一人ですか? 』っと。『ええ。』と応えると『しばらくの間、このお店に通いますか? 』と応え『あ、はい。』と応える。暗黙のルールだったのがお互いの家や出身は言わなかった。」
「うーん。今で言えばFacebookやTwitterで話す感覚ですか? 」
「そんな感じだね。」
 再びコーヒーを口に運ぶ。
「顔も姿も見なったのですか? 」
「ああ。」
「なぜ、懐中時計が合図になったのですか? 」
 コーヒーを運ぶ手が止まった。
 海の波の音が聞こえた。
「この懐中土塊、『彼女』のだったのさ。時計の裏にイニシャルが彫ってあるが、もう掠れてそれもわからない。」
 裏をみれば確かにイニシャルらしきアルファベットが見えるが文字が擦れて消えかかっている。
「最初の話が終わった後に渡された。テーブルに着いたらこの懐中時計を見えるようにおいて、と。その時に見えたのは『彼女』の手だけだった。白く指先も細くてしなやかな手だった。今の君の手にそっくりだ。」
「年も私に近いのですか? 」
「多分。」
「多分? 」
「ああ、多分だ。手だけでは年はわからないからね。地酒造りなら麹を使うし、海女なら海に潜るし、農家なら味噌や漬物を漬けるし、絵描きなら保湿は絶対だ。」
「そうですね。」
 この紳士の妙な説得力に納得した。
 確かに職場によってはわからない。
「どんな話をしたのですか? 」
 見えていない相手に話すことは大概決まっている。
 共通の趣味しか思いつかない。
 だが出た言葉は意外なものだった。
「私が話してそれに質問するだけ。」
 目が点になった。
「びっくりしただろ? 君たちの世代で話すネットの世界では共通の趣味が中心だ。相手が見えない世界で本当にその人物が存在するかわからないのだから当然の流れだ。だが『彼女』は一度も自分からは何も話さなかった。自分の名前、出身、学校、暮らしも含めて全部。ただいつも言っていたのは一つ。私のことを聞かせて欲しい、だけ。それに『彼女』が「どんな感じだった? 」「あなたは何て言ったの? 」と私の心境や服装まで細かく質問をするだけだった。」
 おつまみ程度に柿の種を出す。砂糖が多いコーヒーにはぴったりのおつまみだ。
「詳しく聞いたのですね。全部答えたのですか? 」
「ああ。」
「驚いた。今なら絶対に言わないですよ。」
「そうだね。個人情報だからね。でも『彼女』が一番興味示したのは私の色恋だった。」
 ポリと柿の種を齧る。
「女性なら誰でも興味ありますよ。特に好きな人が付き合っていた女性なら尚更。」
「そうかね? 」
「ええ。」
「いつの時代も変わらないこともあるものだね。」
 口許を弛ませた。
 釣られて一緒に笑った。

 四、『彼女』の正体

「でも本当に知らないのですか? 」
「『彼女』のコトをかい? 」
「ええ。」
 それを聞いて口許が緩む。
 そして、コーヒーを飲む。
 スッと立ち上り、カウンターの延長線上にある本棚に向かい一冊の本を取り出した。
「この本はどこで買ったのかね? 」
 少し表紙がくたびれた本だ。『田園』というタイトルの小説だ。
「それは私が買った本ではありません。」
 首を傾げた。
「私の母が祖母から預かった本だと聞きました。」
「そうですか。」
 本を捲り、目を落とす。
「こちらで座っては? 」
「そうだね。美味しいコーヒーを片手に。」
 席に戻り更に読み込む。
「面白いですか? 」
 冷めたサイフォンを洗う。
「とても。」
「その本、若い青年の青春小説ですよ。友情や恋愛、未来の葛藤など。実にリアルでまるで聞いてきたかのような文の綴りが人気の秘密と母が教えてくれました。」
「そうかね。」
 フラスコの水滴を拭き取る。
「ええ。でもその後にこう言ったのを思い出しました。この本の持ち主からの伝言。「感想を聞かせてください。」と。」
「感想…をね。」
 最後の一口を口に含ませた。
 パタンと本を閉じる。
 再び懐中時計を眺めて言う。
「すまないが伝言を頼む。」
「はい。」
「この本の持ち主に伝えてほしい。『懐かしい思い出をありがとう。』と…だけ。」
「はい。」

「それじゃ、そろそろ御暇するよ。お代は? 」
 立ち上りポケットを探る。
「お代はもういただきました。『彼女』…さん、待たなくていいのですか? 」
 悪戯に聞いた。
 苦笑いをして紳士らしく言った。
「ああ…。君が伝えてくれるだろう? 」
「はい。」
「美味しいモーニングをありがとう。今度来るときはそれを同じ席に置いてくれ。」
「はい。」
 カラン…とドアの開閉が分かる鈴の音が響き、紳士は店から出て行った。
 カウンターには本と先程まで彼が身につけていた懐中時計が置いてあった。
「『彼女』…さん、これで良かったのかしらね。」
 本を棚に戻し、懐中時計はガラスのカップに入れて食器棚に飾ってある古びた写真立ての隣に置いた。
 写真立てには凛とした着物姿の女性の写真が飾られていた。
 海の波音が耳に語るように聞こえる店内で呟いた。
「良かったね。」
 いつもと変わらない店のいつもと変わらない日常が同じ時を刻んでいた。


アンソロジー彼女 web掲載版

[2016年 夏]

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